「われわれが目指す次世代信号処理」とは?



現代信号処理は現実世界のデータに潜む真実を推定するための方法を探究する学問 であり、 処理の対象を限定しない。音声、画像、動画、地震波、また、 様々な通信方式に登場する各種の信号の処理方式を開発するための指導原理を 建設することを目的にした学問である。

次世代の信号処理には、何が期待されているのだろう?

私が助手のとき、ディジタル信号処理ハンドブック(オーム社, 1993年刊)の 「 第1編:ディジタル信号処理序論(原島博著)」の中に興味深い指針を見つけ 強い印象を持った。これによると

現代信号処理の大きな潮流は、

(1) 固定的な信号処理から可変・適応処理へ
(2) 線形的な信号処理から非線形処理へ
(3) 直列的な信号処理から並列処理へ

にあり、次に目指すべき方向として、

(4) 電子的な信号処理から光信号処理へ
(5) 個別信号の処理からマルチメディア処理へ
(6) 統計的な信号処理から知的な信号処理へ

が掲げられている。10年以上経った現在でも尚、大きな流れは変わっていないように思う。
我々のグループが何を目指しているのかをあらためて考えてみると、 おそらく、上記のリストの中で、(1)(2)(3)(6) を実現する最良な方式を 確立しようとしていることがはっきりしてきた。常日頃、自分は興味ある独自の 問題に取り組んでいるだけだと思っていたが(「お前には哲学はないのか?」と おこられそうだが...)、私の頭の中の興味も無意識のうちに、大きな流れに沿っ たものになっていたようで ある(正常なのか?あるいは、ただの人になっただけなのか複雑な心境でもある)。
欧米では、多くの応用数学者が、現代信号処理を中心テーマとして選んでいる。 数学の普遍性と(対象を限定しない)現代信号処理の親和性がよいからなのだろう。 彼らを見ていると、「数学の健全な発展」の方向を信号処理の問題の中から 探らんとしているように見える。もし、我々と同時代にニュートン(1646--1716)や フーリエ(1768--1830)やガウス(1777--1855)が生きていたなら、彼らも信号処理を 研究対象に選んでいたのではないだろうか? ということは、現在、私が日常的に メールを交換している世界中の信号処理研究者の中にも数百年後にガウスと等しい 栄光を冠するぐらいの人物がいるかもしれないのである(「勝手に想像していろ」 と言われそうだ)。実際、次世代のフーリエ解析である ウェーブレット理論も信号処理などへ応用を念頭においてフランスの応用数学者 によって創出された理論である。こんな魅力的な分野の研究に携わることができて 私は幸せ者だと思っている。

信号処理は、数学や数理工学の多くの成果を活かすことができ、しかも世の中の 役に立つ極めて稀で魅力的な研究領域である。1980年代までは、線形理論が主たる 基盤となっており、大きな成功をおさめてきた。ところが、現代の信号処理の中心的な テーマの多くは、古典的な線形理論の単純な応用によって、解決に迫ることが 難しくなっている。また、高い抽象性を特徴とする現代数学を以ってしても理想化された モデルとのギャップから直接的な解決に結びつくことも稀である。単純な応用で解決 できる類の問題の多くはすでに応用数学者によって解決されてしまっているからで ある。我々が真に解決するべき重要な問題は、既成の現代数学が見落としている場所に 潜んでいる。松葉の下に静かに佇むマツタケのようなものである。 幸い、われわれ信号処理研究者は、特定の理論体系のしがらみに 拘束される必要の無い自由な精神の中にいる。勇気(蛮勇?)をふりしぼって、問題解決 に直結する数理の建設に少しでも貢献していくことが重要だと思っている。そして必要 が生じれば、既成の数学がうっかり見落としてきた領域について独自の理論体系を作り 上げていきたいと思っている。もちろん、土台のない偏狭で特殊な議論に陥らないよう 周辺の学問領域の進展にも目を配ることが重要である。別の分野で、とっくに解決済み のことに大切な時間を浪費するのは、愚の骨頂だと思う。また、見かけが「目新しそう」 だとか「難しそうでカッコイイ」という理由だけで(応用の)見通しの悪そうな理論に 飛びつき人生のかけがいのない時間を浪費してしまうのもできれば避けたいところである。 見通しの"よしあし"を判断することは特に初期の段階では極めて難しいことである。 私自身、先が見えず、何度もそういう思いをしてきたこともあり、十分に注意していき たいと思っている。かといって、見通しばかりを気にしていては、未踏の荒野に踏み出 す勇気がそがれることにもなるので、難しいところである。


比較的ウマクいった例を挙げてみたい(ホームページは宣伝するためにあるんだよね)。 我々のグループでは、(a) 信号の統計的な性質に強く依存しない、 (b) 雑音にロバストで、しかも (c) 収束速度が早く、おまけに (d) 計算コストが小さくて済む、適応信号処理アルゴリズムが次世代の信号処理に不可欠であるとにらんでいる。こんなたくさんの要求を同時に満たす贅沢なアルゴリズムが何とか 実現できないだろうか? 我々は、十分に変わり者であるからこの問題を考えてみたの である。この問題は、以下のように上記の(1)(2)(3)(6)を総合的に検討することに よって解決されようとしているのである。
実は、適応信号処理のアルゴリズムは、すでに1980年代までに基本的な アイディアが出尽くしたと信じられており、多くの研究者・技術者は、 アルゴリズムの抜本的な見直しには悲観的で大きな関心を払ってこなかったのであるが、 アイディアが出尽くしたっぽいのは「線形理論の枠組みでは...」という限定つきで あったことを忘れてしまっていたのである。 非線形理論は、一般に線形理論に較べてはるかに難しいと信じられている。 また、「線形以外は、みんな、非線形であるから、どういうクラスの非線形を選ぶか?」 に十分注意する必要がある。我々は一番自然で可能性のある非線形は、凸(トツと読む) というクラスであると信じている。第一に凸性は、線形を含む概念である。 簡単にイメージすると目的関数が「お椀」のような形になる問題のクラスである。

「そんなこと言ってもお椀型以外のたくさん谷があるような目的関数が 重要になることも多いのではないですか?」

という大変するどい質問には、

「そうですね。でも、制約集合を与えることによって、多くの場合 ひとつの谷で考えれば済むことが想像できるでしょ?また、このことから やっぱり凸が基本だということも想像できますね? 問題の定式化を工夫することに よって凸タイプの問題に変形できることだってあるんだよ。とりあえず、凸でできる ことに限定したって驚くほど多くの応用が考えられるんだよ。」

と答えることにしています。

さて、既成の適応アルゴリズムは、大体、信号処理の対象となる信号を 定常確率過程としてモデル化し、平均操作によって推定される統計量を使って、特定の 目的関数(多くは微分可能な2乗平均誤差など)を定義し、これを逐次最小化する戦略が とられている。例えば、(これまでの)定番として不動の位置にある(あった?)Recursive Least Square (RLS)法や Least Mean Square (LMS)法は、定常性を重要な拠り所として いる。定常性を仮定しなければ、統計量が意味を持たないからである。また、アルゴリ ズムの収束性も(理想的には不変な)目的関数に対する平均的な振る舞 いを捕らることによって論じられてきた。ところが、現実の多くの信号の性質は、時間と ともに変化し、統計量を推定するのに十分な時間は与えられていない。 このような状況では、理想的には、時々刻々獲得されるデータに基づいて目的関数も 更新されるべきである。ところが、この戦略で、1つの目的関数の最小化に費やせる 時間は極めて短い(例えば、音響エコー消去問題では、目的関数の変数は数千にもおよび、 それを処理する時間は、1/8000秒程度に限定される)。多くの場合、 最小化の計算が終了する前に目的関数自身が変わってしまっている。 我々は、「目的関数列の漸近最小化問題」というこれまでの数学が対象としてこなかった 問題に遭遇してしまったのである(通常の最適化理論は、目的関数自身が変化す る状況は想定していない)。この問題に凸解析の考え方を導入することによって、 また、微分不可能な評価関数を導入することによって、既存のアルゴリズムの性 能をはるかに凌ぐ アルゴリズムのクラスが生まれつつある。この問題がどのように解決されつつあるか については、拙著:

山田功:"射影型適応アルゴリズムの新展開 ---射影劣勾ばい法による統一的視点とその応用," 電子情報通信学会誌, Vol.86, No.8, pp.654--658, 2003 8月号

I. Yamada and N. Ogura: "Adaptive Projected Subgradient Method and Its Applications to Set Theoretic Adaptive Filtering," Proceedings of the 37th Asilomar Conference, Nov., 2003.

I.Yamada, K. Slavakis and K. Yamada, An efficient robust adaptive filtering algorithm based on parallel subgradient projection techniques, IEEE Trans. Signal Processing, pp.1091―1101, vol.50, no.5,2002.

を参照していただきたい。この中で、線形理論を包含した非線形理論である 凸解析の有効性を味わっていただくことができると思う。


2003年11月28日 山田 功

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